ハメドゥスト テヘラン通信 第26号
サラーム。ハレショマチェトレ。
6月になりました。今月のはじめは2連休が2回続き、このテヘラン通信も楽に書けると思っていたのですが、社会見学の下見や雑務で休みがなくなってしまいました。今年も去年並みに通信の発行をしたいと思っているのですが、少し目標が高かったかなぁと思っています。定期的な発行、とならずとも時間がある限り書くつもりですので、お楽しみに。
さて、今回は、昨年度も少し紹介した「アシュラ」の儀式についてです。昨年は遠くから見ているだけでしたが、今年はできるだけその中に入り込んで、観察してみました。殺気だった中で、イランの人と小競りあいになりましたが、しっかりと研究はできました。今年のアシュラは5月28日でした。
壮絶、アシュラの行事
アシュラとはイスラム暦ムハッラム月10日の日を指し、イスラム教シーア派にとって、最も悲しむべき日となっています。この日は、ムハンマド(予言者)の孫で、シーア派3代目イマーム、ホセインの殉教日で、イラン全土で喪に服す日となっています。
イスラム暦61年のこの日(西暦680年10月10日)ホセインは不正なウマイヤ朝の打倒を目指しましたが、その途中、カルバラという土地で、婦女子を除いた一族全てが全滅させられました。総勢72名とホセインは惨殺されたと言っても過言ではなかったようです。
この事件によってシーア派は、確かなものになったとも言われています。イスラム教シーア派を国教とするイランにとってはたいへん重要な意味を持つ日なのです。
イランでは、その日の数日前から黒い垂れ幕を家や商店の前にあげ、男の人は黒いシャツ、黒いズボンで身を包みます。また、人々は気分が高揚し、暴徒と化することもあるそうです。南部へはアシュラ前後は行かない方がいいと忠告もされました。また昨年のことですが、日本大使館の人の車が襲われ、車がボコボコにされたという話も聞きました。
男達は、アシュラを含む3日間、正午近くから約2時間ホセインと同じような苦しみを受けるために鎖で自らの体を打ち、「ホセイン」と叫びながら行進をします。彼らの体は真っ赤になり、それでも体にむち打っていました。
人々は殺気立ち、興奮してくるのが分かるのでその行列の中に入ると怖くなりました。行列は時々止まり、話が始まるのですが、それはカルバラの悲劇の話のようで、まわりで聞いていた人々は声を上げて泣いていました。また、男達は素手で体や頭をたたくことを繰り返していました。イランの人達の民族の団結を感じる迫力のある儀式でした。
(7号、50号参照)
<後日談>(Mさんより)
エマームホセインですが彼はハズラットモハムマッドの孫にあたります。
そのひとが今のイラクのカルバラへいったんですが相手は同じイスラム教徒でした。エマームホセインは彼の敵対する集団の支配(彼等はアラブ人に特権をあたえていたから)に反感をもっている村の人々から要請があってまわりがとめるのもきかずに戦地へおもむいたわけですが、数のうえではものすごい差があったので、エマームホセインに助けを求めたものたちは彼を見捨て、戦うことをしなかったのです。かなり壮絶だったようです。そして何日も水の配給をとめられて、さんざん苦しめられたうえで同じイスラム教徒にエマームホセインは殺されたのです。
そういうことがあったので彼を見殺しにしたっていう罪の意識をいつまでも忘れずにいるためにあのような風習(喪服をきて彼の死を悼み、裸足で鎖を身体にうちながら、あるいは胸を手でたたきながら何十キロと行進する)がシーア(シーエ)に残ったのだとおもいます。
彼を見捨てて申し訳なかった、彼の苦しみの何分の1でも体験して償いたいっていう当時の人々の心境を時を経てもあの行事はあらわしているでしょう。。。。実際、スンニ派にはこの行事はまったくなく、ときには一部のスンニ派から攻撃の対象にされるくらいです。
![]() 今年も去年に引き続き、日本でのリーグ戦(Vリーグ)の優勝チームがイランで行われるアジアクラブカップ選手権に出場するためやってきました。昨年はサントリー、今年はNECがやってきました。試合の合間を縫って日本人学校を訪問し、子供達とゲームして楽しんでもらいました。子供達は、ほとんどの人からサインをもらい大喜びでした。記念写真を全校生徒で撮ったのですが、今月か来月号の「月刊バレーボール」に載るはずです。去年も掲載されたので、興味のある人は見ておいて下さい。 試合当日は、日本人会をあげて応援に駆けつけ、見事全勝優勝しました 。日本代表や時期日本代表の選手と間近で会い、その背と手の大きさに驚かされました。あまりバレーに興味のなかった先生にとっては、感動は少なかったのですが、日本の知り合いなどからはたいへんうらやましがられました。こんな事もなかなか経験できないことの1つかもしれません。 |