ハメドゥスト    テヘラン通信   第41号 






サラーム。ハレショマチェトレ。
 ヨーロッパではこの冬、寒波が襲い厳しい寒さを迎えているようですが、ここテヘランは昨年末の予想に反し、今のところ暖冬となっています。予定されていたスキーの下見やスキー教室も延期となっています。寒いのは嫌ですが、日本人学校の子供たちのためには、雪が降り積もってほしいと願っています。イランでは、今週(1月11日)からラマザン(断食)に入り、公の場での飲食が出来なくなりました。(ラマザンについては20号参照)   
 さて、今回は前回に引き続きイラン革命についてです。

 
◆ イラン革命(2)
 18世紀からイギリスで始まった産業革命のエネルギーが石炭から石油へ移行していくと、その石油の商品価値が増し、19世紀には、それを世界で60%を生産し、全世界の現金の半分を生み出すことになったペルシャ湾沿岸に大国(イギリス、ソ連、アメリカ)が石油を求め競い合うことにな なります。
1941年第二次大戦が始まるとイランは再び中立宣言をしました。イギリスとソ連は石油の採掘権のこともありイランに進駐し、アメリカがこの時期に権力闘争の中に入り込んできました。イラン人にとってイギリス、ソ連は長年の敵だったので、アメリカは比較的歓迎され、後に政府の顧問にも多くのアメリカ人がいることになります。
 レザー・シャーは大戦が始まると、イギリス・ソ連からドイツ寄りを非難され王位を息子のムハンムド・レザーに譲らされました。大戦後、イギリス、ソ連は安全保障理事会によりイランから撤退させられます。
 時代は「米・ソ(アメリカ・ソ連)」の冷戦に入り、イギリスの役割が低下していき、アメリカがこの地域でも力を持ってきます。そして、1953年のアメリカの工作による軍のクーデター(反革命) によりその力を不動のものとします。
 パーレービ朝以前より、イランの石油利権はイギリスの石油会社をはじめとする外国資本により握られており、イランは自分の国で生産される石油を自由に売ることができませんでした。大戦後、国民議会が開催されるようになると、民族主義者のムサデク首相が登場し「石油の 国有化」を行いました。しかし、外国資本の企業グループなどの妨害により石油を売ることはできず、国の収入がストップし、国民の生活が苦しくなりました。このようなときに、アメリカは、ソ連による「イラン奪取」を名目にイランの軍と民衆を利用し、モサデク体制に対抗するクーデターを成功させました。そして、モサデク首相は解任させられ、これ以後イランの石油はイギリス系に代わって、アメリカ系の会社に支配されていきました。同時にテヘランは反政府者には街頭銃殺をも行うシャー(ムハンマド・レザー)に忠誠な軍隊と警察によって征服された街となっていきます。また、反体制派は変革の唯一の武器はテロリズムと確信し、ムジャヘディン・ハルクやフェデイン・ハルクなどのイスラム原理主義行動派テロ組織を結成しました。
 1960年、石油の販売は産油国で行うべきであるという理念の下OPECが結成され、そのおかげでイランは石油による莫大な収入を得ます。そして1963年シャーは「白色革命」と呼ばれる国の近代化をはかります。これに反対した後の革命の指導者となるイスラム聖職者ホメイニ氏は、この年イランを追放されパリで活動することになります。
 シャーは、石油で得た収入で私利私欲を肥やし、権力も金で買い絶対的な存在となりました。公私混同が国中で行われる一方で、国民の生活は豊かにならず、スーパーには輸入品が増え、バザールの商品が売れなくなり商人からの不満も爆発しました。
 1978年、ついにイスラム聖職者達によるデモが起き、全国に広がっていきます。 シャーは国外へ逃亡し、翌年、ホメイニ氏がパリから帰国し、パーレビ王朝が倒れ、革命が成功させられました。(イラン歴11/22 西暦2/11)
その年の11月4日には、シャーと親しくイランや中東の神経センターとなっていたアメリカ大使館が学生によって占拠される事件が起こり、52人のアメリカ大使館員 が444日もの間、人質となりました。  革命は、シャーの専制政治に反発して起こり、古き良き時代のイスラム統治時代を求め成功させられました。それは、古くから他民族の侵略とその防衛を繰り返す歴史を持つ国の宿命だったように思われます。
今でも、午後7時からのニュースは革命の様子と故ホメイニ氏の映像で始まります。