ハメドゥスト テヘラン通信 第40号
サラーム。ハレショマフーベ。
テヘラン日本人学校でも新学期が始まり、元気な子供達と久しぶりに会い、ホッとしました。一番短い、別れが待っている学期、最後の行事、学芸会がある学期なので、1日1日を大切にし、はりきって頑張っていくつもりです。
イランは、今年大きな節目を迎えます。それは、大統領選挙があり、ラフサンジャニ大統領の2期8年目の任期にピリオドが打たれるからです。1月5日に以前から次期大統領と言われているナテクノウリ国会議長が正式に出馬表明を行いました。まず彼が今年6月に大統領になることは間違いないというのが大方の見方ですが、イスラム原理主義の強行派として知られており、先生達の日常生活への影響が出ないか今から心配しています。
さて、今回から2回に分けてイラン革命の紹介をしたいと思います。
◆ イラン革命(1) 今なお残る革命の傷跡
イランと言えば、「革命」「テロ」「イスラム原理主義」「石油」などの言葉が連想されるのが一般的ですが、これらを抜きにして、現在のイランを語ることはできないのが実状です。それは、今のイランが革命を経て成立している国家であってそれらが絡み合って、現在がある国だからです。
現在のアメリカとの険悪な関係、テロ国家とみなされている理由、世界の歴史についても触れていきたいと思いますので、しっっかり読んで、イラン理解を深めてみて下さい。
19世紀の始めから話を進めていきたいと思います。この時代の体制は18世紀後半に成立したカジャール朝でした。初めて首都をテヘランに移した。)この王朝は、1813年ロシアと戦い、敗戦し、ロシアに貿易をはじめとする不平等条約を結ばされます。その後、イギリスがイラン国内での紙幣発行権を獲得、銀行を設立し、国の利権が外国によってされました。その上、1907年にはイギリスとロシアによりペルシャは三分割支配されました。その翌年、南部のイギリス支配地区から石油が掘り当てられイギリス資本のアングロ・ペルシアン石油会社による石油開発が始まり、長年にわたり、中東で最も豊かな産出量を誇ることになります。第一次大戦中ペルシャは中立を宣言しましたが、やはりイギリスとロシアに一部、領土を占領されました
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その後、1917年にロシア革命が起こり ます。ロシアは軍を引き上げさせ、ペルシャ軍下士官に駐屯地を委ねました。その下士官の軍曹レザー・ミルザがレザー・カーンとなり、イラン最後の王朝パーレビ朝の創始者レザー・シャーとなりました。(シャーは「王」の意)そして、1925年、国名もぺルシャからイランにかえられました。
1人で調理実習 昨年の9月から先生の担任する中学生は1人となったことは以前にも紹介しました。体育、音楽を除く全ての教科を1人で受け、教師からの発問や質問に全て答える機会があり、うれしい悲鳴をあげています(?)。 技術・家庭科でも彼は貴重な体験をしています。2学期は食物の勉強し、調理実習を行ったのですが、それも1人で材料・道具の準備、調理、後片づけをしました。担当の先生としては得意な料理の腕前をしばしば見せることはあったのですが、できるだけ彼1人でやってもらうことにしました。 計3回行い、スパゲティ、サラダ、五目ご飯、おすまし、煮魚、酢の物などを作りました。毎回、思ったよりうまく作れていて、2人で驚いてばかりいました。家でも、かなり母親に特訓を受けていたそうです。 3学期は木工をするのですが、日本のように業者に頼んで適当な板材を仕入れることはできないので、材木屋に行って原木から適当な厚さ、大きさの板を切り取ってもらい、それから自分の作りたいものを製作することになります。イランにある木材は堅いので、うまくできるかどうか・・・ ちなみに先生は試作品の本立てを作ったのですが、うまく作れましたよ。 |