ハメドゥスト テヘラン通信 第5号
サラームハレショマホベ。今回はちょっと難しいかもしれませんが、イランの歴史の話です。こちらで売っていた英語で書かれたガイドブックを参考にしていますので、読み方などが違うかもしれませんが、年表を見ながら読んで下さい。
◆イランの歴史
イランに人が住み始めたのは、今から3000ー4000年前にアーリア人が住んだのが最初だとされています。はじめの1000年間はいくつもの王国が、できてはつぶれていたようです。
紀元前8世紀に、最初の統一国家メディアが首都をハマダンにおき、できました。
その後、紀元前6世紀にパルス族のクロシュ王のアケメネス朝ペルシャ(ペルシャ帝国)がメディアを倒し、イラン人を支配しました。この時、首都ペルセポリスが造られました。イランの旧国名「ペルシャ」はこのパルス族のパルスのギリシャなまりだそうです。
次の皇帝のダリウスとその息子クゼルクスはギリシャのアテネを支配しようとしましたが、それはできずに紀元前4世紀にアレキサンダー王に攻められ、帝国を滅ぼされてしまいました。この時、ペルセポリスは彼によって燃やされました。その征服は紀元前2世紀まで続きました。その後、パルティア人は自分たちをアケメネス朝の後継者とし、パルティア帝国を作り、ゾロアスター教を国教としました。この頃、中国との国交が始まりました。350年間ほどこの王朝は続きましたが、それから400年間続くササン朝ペルシャに戦いで破れました。ササン朝はペルシャの再建に努め、高い文化を築き上げました。その影響は日本にある正倉院の御物にも見られます。この頃、アラブでマホメットがイスラム教を説きました7世紀にはアラブ軍がイランを支配し、ゾロアスター教に変えてイスラム教を国教とし、また、文字もアラビア文字を採用しました。
その後、イランはセルジュク・トルコやモンゴル、タタール族に攻め込まれました。16世紀初め、サファビー朝がシャー・アバス1世によって作られました。彼は、国を再建し安定させました。建築物の建造にも情熱を注ぎ、首都イスファハンには世界でも類を見ないほどのすばらしいものを造りました。また、この時に、イスラム教シーア派を国教としました。
次の王ナダール・シャーは、軍事国家体制を取り、インド近くまで領土を広げました。その後、2つの対立する王朝の戦争のあと、第一次世界大戦まで、カジャール王朝が支配し、首都をテヘランにおきました。
戦争によって18世紀までソ連やイギリスに国力を弱められ、19世紀にはイギリスにイランの大部分の石油の商業権を奪われ、ますます弱まったが、人々は近代化を押し進め国内の再生を図りました。
20世紀の初め、レザー・シャー・パーレビによってイラン最後の王朝となるパーレビ朝が作られました。輸出世界第2位の石油資源を持ち安定した王政が続いたが、近代化によりイスラム教シーア派との確執ができ1979年ホメイニ師により革命が起こされました。
その後、ホメイニ師が最高指導者となり、彼の死後から現在までハメネイ師がその地位に
います。
★少し難しい話だったかもしれませんが、イランは歴史のある国で、これからも今回紹介した
時代、人名が時々出てくるかもしれませんのでよく覚えておいて下さい。それではホダフェス
社会見学でカナートを見たゾ! 5月の中旬に社会見学で、テヘランの中心から約12q南にあるレイという町へ行きました。今はテヘラン郊外の小さな町ですが、昔はイランの重要な土地として紀元前から12世紀まで長い間栄えていた町です。マルコ・ポーロの「東方見聞録」には『バクダット以外で、全ての東洋の町で最も美しい町』と書かれています。また、ゾロアスター教が生まれた土地でもあります。 ![]() そこには2、4、8代のイマームの埋葬されている「金のモスク」やセルジュク朝の初代の王様の墓「トゥグリル・ペルの墓塔」、昔のレイの町の中心地だった「アリーの泉」がありました。アリーの泉には19世紀カジャール朝時代に掘られたといわれている、ササン朝ペルシャ時代の最後の王ヤズドギル3世が腰掛けているレリーフが岩壁にあり、その見事なレリーフとそれを野ざらしにしていることにたいへん驚きました。また、なぜ、19世紀にササン朝の王をモデルにレリーフしたのか不思議に思いました。 レイの町の近くにはゾロアスター教の火を祭るための「タッペ・ミルの拝火神殿跡」があり、そこにも行きました。それはササン朝時代に作られたとても古い遺跡です。 ![]() そのすぐ近くにカナートという地下水路があり、見てきました。先生も社会の教科書でしか知らなかったのですが、ただの直径80pほどの底が見えない穴でしたが、なぜかうれしくなってしばらくの間、覗きこんでいました。水の流れる音がとても涼しそうで印象的でした。 質問:なぜ、このあたりの地域ではカナートが必要なのでしょうか。 |